毎度おなじみのプロレスの話(^.^) 今回は三沢光晴である。 極限まで戦い抜いた人であった。 飾らない人であった。 悩み事の尽きない人であった。 2代目タイガーマスクとして活躍していた頃は、自らが目指すレスラー像と、「タイガーマスク」として求められるレスラー像とのギャップに悩み、全日の社長に就任した頃は、亡き師匠、ジャイアント馬場の未亡人の元子さんとの対立に悩み(全日本プロレスの株式はほぼ全て元子さんが所有していて、元子さんは三沢社長が打ち出した方針に片っ端から反対したそうだ)、最終的には全日を退団してNOAHを旗揚げすることとなった、 NOAHを旗揚げしてからも、激戦のダメージによる体の不調や、地上波放送打ち切りに起因する経営悪化等、いろいろなことに悩まされた。 現役晩年の三沢は、日常生活に支障が出るほど、首にダメージを抱えていた。 それでも彼は休まずにリングに立ち続けた。 リング上で命を散らす日まで... 彼が全日を退団した時、彼自身は「居酒屋をやりながら5人程の新人を育てて、小さな会場で3試合くらいの興行をやれればいいかな」と思っていたそうだ。 しかし、彼の元には26人のレスラーが彼を頼って集結した。当時の全日本プロレスの取締役9名のうち5人が彼と行動を共にすることを望んだ。 三沢光晴は好きで方舟(NOAH)を作ったのではない。 作らざるを得なかったのだ。 亡き師匠、ジャイアント馬場を裏切るようなことになっても、彼の元に集まった者たちを放ってはおけなかった。 三沢光晴とは、そういう人である。
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