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とうけいにせい
  岩手
逃げ馬の話5( ミホノブルボン)
2013/02/09 18:07

逃げ馬の話第5弾、今回はミホノブルボンのことを書く。

92年のクラシック2冠馬、というより「坂路の申し子」「戸山為夫の最高傑作」と言った方が分かりやすいかもしれない。

故・戸山為夫元調教師が短距離馬と見られていたブルボンを1日4本の坂路調教で鍛えあげて、皐月賞、ダービーの2冠馬に押し上げたことは、数々の本や映像で記されている通りである。

ブルボンの現役時代の映像を見ると、まさに「マッチョ」という言葉がビッタリと当てはまると思える。トモの筋肉の盛り上がりもそうだが、私は両前脚の筋肉のつき方が強く印象に残っている。「坂路って凄いんだな...」と素直にそう思った。

ブルボンの活躍を境に、坂路のある栗東と、当時はまだ坂路がなかった美浦の力関係が完全に逆転したことを考えると、坂路調教の効果は絶大なものだったのだろう。関西馬でないとクラシックを勝てない時代が長く続いたのだから。

ブルボンには残念だったことが2つある。

1つは3冠を惜しくも逃した菊花賞である。
「前に馬がいるとエキサイトする」馬だったブルボンであるが、菊花賞ではキョウエイボーガンの強引なダッシュの前に、2番手からの競馬を余儀無くされたのは誤算であったろう。
いつものようにハナを切って気分良くレースを進めたら、ライスシャワーとの追い比べの結果は違うものになっていたかもしれない。距離適性はライスシャワーの方があるとしてもだ。
(キョウエイボーガンの手綱を取った松永幹夫は、強引に先頭を奪った騎乗を批判された)

2つ目は、1日坂路4本というハードトレーニングを課されながら、調教後の脚元のケアがほとんど行われなかった、ということである。
これについては、当時調教助手だった森秀行が自著の中で指摘し、「当時の戸山厩舎は、故障する馬が非常に多かった」と批判している。
当時の競馬界は徒弟制度が色濃く残っていた時代、師匠である戸山師に進言したくても出来なかったのであろう。

脚元のケアさえちゃんとやっていたら、ミホノブルボンは古馬になっても活躍できていたであろう。

生まれた時代が早すぎた名馬であった。

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