「馬場さんが泣いた日」 ☆198O年代の半ば、全日本プロレスに「マジック・ドラゴン」というマスクマンがいました。 テキサスで同郷(宮崎県出身)の先輩、ザ・グレート・カブキとのタッグで活躍したあと帰国してカブキさんと共に全日本プロレスの所属選手となりました。 1985年6月、マジック・ドラゴンは小林邦昭とのマスカラ・コントラ・カベジュラ(マスクおよび頭髪を賭けた試合)で敗れてマスクを取り、「ハル園田」として素顔でファイトするようになりました。 園田さんはレスラーとしては小柄で地味な存在でしたが、非常に高い技術の持ち主で、全日本プロレスの道場では若手のコーチとしてデビュ一前の小橋健太さん、田上明さん、菊地毅さんらを鍛えあげました。 また、ジャイアント馬場さんの付き人を務め、馬場さんから非常に厚い信頼を受けていました。 1987年秋、馬場さんは南アフリカでのプロレス興行のマッチメイカーをしていたタイガー・ジェット・シンから選手派遣を要請されました。 馬場さんは園田さんを派遣することにしました。 園田さんは結婚したばかりで、馬場さんは新婚旅行を兼ねて園田さんを南アフリカに遠征させることにしたのです。 園田さんを息子のように可愛がっていた馬場さんは、園田さんの結婚式の費用を自らのポケットマネーから出し、園田さん夫妻が南アフリカへ出発する際は百万円単位の餞別をまたもやポケットマネーから出して送り出しました。 当初はパリ経由で南アフリカへ向かう予定だったのですが、手違いがあったのか、現地のプロモーターから送られてきた航空機のチケットは台北とマダガスカルを経由する便のものでした。 1987年11月28日、南アフリカ航空295便はマダガスカル島沖で火災を起こして墜落、日本人47名を含む140名が犠牲となりました。 乗客名簿の中には、園田さん夫妻の名前がありました。 園田さん夫妻は、帰ってきませんでした.... 1987年12月16日、後楽園ホールでハル園田さん夫妻を偲ぶセレモニーが行われました。 馬場さんは師匠として、また全日本プロレス社長として弔辞を読みました。 しかし、最後まで弔辞を読むことはできませんでした。 馬場さんは泣いていました。 209cmの巨体を震わせて泣いていました。 「自分が南アフリカに行かせたからこんなことになってしまったのだ」 馬場さんは自らを責め続けていました。 馬場さんにとって、園田さんを失ったことは息子を失ったのと同じことでした。 セレモニーが行なわれる少し前、日本武道館で「世界最強タッグリーグ最終戦」が行われました。 武道館内には園田さんの遺影が飾ってありました。 馬場さんは輪島大士さんと組んで、アブドーラ・ザ・ブッチャー、TNT組と戦いました。 試合が終わったあと、ブッチャーは園田さんの遺影の前に立ち、深々と頭を下げて園田さんの冥福を祈っていました。
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